第51話    「庄内釣りの文人宇野江山」   平成17年03月27日  

土屋鴎涯の「時の運」の中に宇野江山についての記述がある。

「鶴岡の七日町辺りの若者は宇野江山と云う自称釣博士を中心として釣会を初め、専ら腕自慢の寄合だそうだ・・・」おそらく若きの日の宇野江山の事だろうと思われる。ある日その会の若者が何も釣果がなく釣れなかったので、加茂の港で魚を購入しその魚を家に持って帰った。仕事を投げ出しての釣であるから、家の者に釣れた事にしての魚である。ところが加茂出身のお手伝いさんには簡単に見破られる図がある。とかく若者は大きな魚を釣り、自分の腕を自慢したがるようだ。それは今も昔も変わらない。そんな腕自慢を土屋鴎涯は冷ややかに見ていた。

江山(明治9年〜昭和27年)は鶴岡の七日町の女郎屋を営む家に生まれ名を信治と云う。幼少の頃から学問を好み漢学、禅学を学び更に俳句を良くし、宋風書体の能書家としても知られている人物である。昭和4年遊郭が今の若葉町に移転時、廃業して趣味の道に没頭したと云う。また若い頃から釣が好きで、釣にかけても名人と云われている。これも趣味が昂じて竿作りも行ったが、この人の竿は評価の分かれるところで現存する竿で良竿とされるものは少ない。しかし、流石に文人の釣りだけあって、釣を研究し釣を愛し「漫談釣哲学」、「釣の妙味」等の釣りに関する本を著している。

昭和811年に書かれたこの本の中で60歳になろうとしている江山の釣に対する考え方は、枯れた中にも庄内の釣を愛した如何にも文人らしい考え方であると思える二冊である。若くして血気にはやり町内の若者を集めて釣会を作り、釣果の自慢をしあっていた江山を土屋鴎涯は冷ややかに見ていた。晩年の江山には若き日の江山の姿は何処にも見えて来ない。

血気にはやっていた若者の時代釣りと一端の文人として知られるようになった枯れた晩年の釣では自ずと異なるものがあったのではなかろうか?「釣れた釣れないではなく、釣りをすることが楽しいのですヨ!」と云う境地に達した釣ではなかったかと思えてくる。「私は釣れても釣れなくとも良い釣りですから。今年は7回ばかり行ったですヨ。それで釣れないからと云って頬を膨らしません。それは釣りの目的が異なるからです。釣が目的の人は漁がなければ腹も立ちましょう。私の釣りは周りの美を求める事が目的なので少しも腹が立ちません。」とは釣りは好きでもお世辞にも上手ではなかった釣りの聖人の一人幸田露伴である。明治の文豪と云われるだけあって、言訳もお上手である。しかし、これが本当なのかもしれない。文人の釣りとは凡人の釣人が考えているような釣とは、少し違うのかも知れない。